この時期目に留まる風景でいつも思うことがある。
かつて住んでいた小樽の家に柿の木があった。
「桃栗3年柿8年」というからもうそろそろ実がなる頃だろうと心待ちにしていた矢先に、札幌へ引っ越すことになった。
平成15年のことだった。
終の棲家として特別に手をかけた家だったし、思い入れのあった庭木などにも未練を残して小樽を離れたが、その後も時々はその前を通り柿木を眺めていた。
ところが人手に渡って間もなく行ってみると、柿の木は元より庭木が跡形もなく抜き去られていた。
とてもショックだった。私たちにとっては思い出の家、思い出の庭木だったが、他人にとってはたかが木だったかもしれない。
もしかしてその年には実がなっていたかもしれないと思うと、残念で仕方がなかった。
その家の前を通るたびに、そして柿の実のなる風景を目にするたびに「今頃は柿がなっていたかもね」というのが、私たち夫婦が決まって口にする言葉だ。